エコール・ド・パリ Ⅱ


変化を恐れず、
マイナス要素も作品へと昇華


パリが世界で最も華やいだ時代、“エコール・ド・パリ”について、そのアーティストの多くが移民でした。彼らは母国を離れ、パリでその才能を開花します。

モディリアーニはイタリアからパリにやって来ました。マックス・ジャコブに言わせると、彼は「小柄で堀は深くないが美男子。頑固で融通がきかないが情にもろく、もっぱら芸術家であり詩人」で、のちにシャガールと並び、エコール・ド・パリの中心的な人物となります。しかし、経済的には恵まれず自分が描いた肖像画をコーヒーやワイン、パスタと交換するなどしながら、ギリギリの生活をしていました。そんななか、隣人だったピカソやコレクターを介し出会ったアフリカンアート、そしてルーマニアから徒歩でパリにやって来たブランクーシの影響などを受け、ついにその芸術性を開花。あの独特の画風を生みだし、短い生涯の間に多くの素晴らしい作品を残しました。

そんなモディリアーニと親友だったのがフジタです。彼は東京美術学校(現在の東京芸術大学西洋画科)に入学。卒業後、画家として活動しますが、当時の日本は印象派の影響が強く、人間の内面性を重視したフジタの作品は黒田清輝などに代表される日本のアート界で評価されることはなく、国内ではまったく売れませんでした。パリに自分の活路を求めたフジタは、渡仏後モンパルナスに居をかまえ、エコール・ド・パリの人々と触れ合うなかで、印象派こそが洋画だという狭い日本の固定概念やその呪縛から解き放たれます。彼は創作の自由を知り、学校で習ったことを捨て、自分を解放することにより才能を開花させたのです。フジタは、エコール・ド・パリの画家のなかで存命中に経済的な成功をおさめた数少ないアーティストの一人でもありました。

一方、パリ出身ではありますが、その環境を変え、エコール・ド・パリのコミュニティに身をおくことで開花したのがユトリロです。ユトリロは幼少期から精神的な病に悩まされ、精神病院に入院していました。ユトリロの母親は画家でしたが、彼は独学で絵を学びます。入退院をくり返し、アルコールに溺れ、一時は依存症にまで陥っていましたが、絵を描くことで精神的にも肉体的にも回復。その才能を発揮することとなるのです。

新たな創作の場を求めてパリにやって来たアーティストと、そんな彼らと触れ合うことで新しい刺激に出会ったパリのアーティスト。両者に共通するのは、変化に恐れず冒険することで創作をドラスティックに変えていったことでしょう。ネガティブな要素も自分たちの意識や志ひとつで変えられる。たとえ自分が変わらなくたって、身を置く世界が変わればその価値や評価さえ変わってくる。ちょっとした挑戦で人生は変えられるのだと、彼らの作品は語りかけてきます。

エコール・ド・パリの舞台となったバトー・ラヴォワールとラ・リューシュ。残念ながらバトー・ラヴォワールはなくなってしまいましたが、ラ・リューシュは今もアーティストたちの創作の場としてモンパルナスの地で歴史を刻みつづけています。

©Photo Christie's Images London/Scala, Florence /amanaimages

 Maurice Utrilloモーリス ユトリロ

1883年12月26日パリ生まれ。画家だった母のもと私生児として誕生。幼少期から病弱かつ情緒不安定で成績は優秀ながら、学校にも馴染めず18歳の頃にはすでにアルコール依存症の治療をはじめるほどの中毒になっていた。1902年頃から絵を描きはじめ'10年に絶頂期、白の時代を迎える。1955年11月5日(71歳)没。


©Bridgeman/amanaimages

アメディオ モディリアーニ
Amedeo Modigliani

1884年7月12日トスカーナ生まれ。ユダヤ系の両親のもとに四人兄弟の末っ子として誕生するもその年に家業が倒産。経済的には不遇であったが、芸術的才能は母によって早くから見出されていた。しかし生前の評価は低く、独特の画風が世間に認められる前に生来患っていた結核にて1920年1月24日(35歳)没。



レオナルド ツグハル   フジタ
Léonard Tsuguharu Foujita

1886年11月27日東京生まれ。陸軍軍医として高名な父のもとに四人兄弟の末っ子として誕生。日本画の技法を油彩画に取り入れた独特の画風で、西洋画壇の絶賛を浴び、フランスでは知らない者はいないほどの人気を獲得。1955年フランスに帰化し、藤田嗣治からレオナルド・フジタへ改名。1968年1月29日(81歳)没。


公開日:2020年1月1日

更新日:2020年1月1日