印象派


古典に学び、アカデミックさや
楽しさを作品に込めて


今回は印象派のアーティストの中からエドガー・ドガとオーギュスト・ルノワールの二人をご紹介したいと思います。

ドガといえば、踊り子をはじめ入浴する裸婦など、女性のありのままの姿を描いたシリーズや当時のパリの日常を描いたカフェの作品などが有名ですね。印象派展には第7回を除いて第1回からすべて参加し、展覧会の管理運営責任者を務めるほど印象派の中心的な存在でもありました。しかしドガは印象派のほかのアーティストとは異なった特徴を多く持っています。それは何だと思いますか?

印象派のアーティストがみな光と色彩を求め、キャンバスを屋外に持ち出すなか、ドガは初期の作品を除きほぼすべての作品を屋内で描きました。ドガは室内で、そこにある人間の営み、情景を描き続けたのです。そして、印象派のアーティストが共通してみな自然光を描いたのに対し、人工的な光が及ぼす効果を追求した画家でもありました。また、印象派のなかではめずらしくアカデミックな美術教育を受けていたドガはアカデミズムのアーティストを尊敬し、とりわけその代名詞でもある巨匠アングルを崇拝していたことでも知られています。

当時、商業的に成功するための条件でもあったサロンでの入選も、セザンヌをはじめ印象派のアーティストたちがみな落選するなかドガは多くの入選経験を持つエリートでもありました。さらに、ほかの印象派のアーティストたちと違い、瞬間の動きを完璧にとらえるため、何枚ものデッサンを描き入念な下準備をしてから作品制作を行っていたのも大きく違う点のひとつ。日本人は瞬間を永遠に凍結する民族であるとアンドレ・マルローは評しましたが、ドガはその一瞬の美しさを永遠に閉じ込めたアーティストだったと言えるでしょう。作品の題材や作風からは葛飾北斎の影響も色濃く感じさせます。

一方、みなさんが思う印象派そのものとも言える光と色彩が織りなす美しい絵画を多く生み出したのがルノアールです。ゴッホやゴーギャン、セザンヌと、多くの画家が苦しみながら模索し創作するなか、楽しんで描くことを信条とするほど、ルノアールはとにかく楽みながら多くの作品を生み出しました。貧しい環境で育ったにも関わらず苦労話というものがないほど、ルノワールはあらゆることをポジティブに変えていったアーティストでもありました。苦楽を共にしたモネとの友情の話など、心温まるいくつものエピソードはルノワールの逸話として語り継がれています。

とにかく美しい絵を描くルノワールは肖像画家として人気がありましたが、それは自分のための作品制作というより生活のためというのが大きかったようです。1881年、経済的に落ち着いた頃、イタリアを旅したルノワールは、ラファエロの作品に多大な影響を受けます。そして、極度のスランプに陥ります。それまで明るい絵ばかりを描いていたルノワールにもちょっと考え直す部分があったのでしょう。代表作も描き終えた50歳を過ぎた晩年になって、ようやく絵画というものがわかってきたと語ったそうです。最期、病床に伏せながら、家族にパレットと絵の具を用意するように指示したというルノワール。彼の集大成と言える最後の作品はどんな絵だったのでしょう。

©Photo Scala, Florence /amanaimages

Edgarエドガー Degasドガ

1834年7月19日、パリの銀行家の家庭に生まれる。パリの国立美術学校エコール・デ・ボザールではアングル派を支持。古典を重んじ、ルーブル美術館での模写に明け暮れる。その後3年ほどイタリアにも滞在し古典美術を研究した。父が死後に残した負債を返済するため作品の他にパステル画を多く描くなど晩年は経済的苦労したが、好きだったオペラ座の定期会員は継続。生涯、バレエは絵画のモチーフとなった。1917年9月27日脳出血のためパリにて(83歳)没。

©Musee d'Orsay, Paris, France/Bridgeman /amanaimages

Pierreピエール-Augusteオーギュスト Renoirルノワール

1841年2月25日、フランス中南部リモージュで仕立屋を営む家庭に誕生。3歳のとき一家でパリに移り住む。印象派の画家がみなブルジョア階級出身だったなか唯一労働者階級出身者でもある。磁器工房の絵付け職人になるも産業革命で職を失い二十歳のときに画家になることを決意。入塾したシャルル・グレールの画塾でモネやシスレーと出会う。生計のため印象派展の参加後もサロンへ出品。また肖像画家としての人気も家計を助けた。1919年12月3日(73歳)没。

公開日:2020年1月1日

更新日:2020年1月1日