ポスト印象派 Ⅰ


芸術家の理想郷で
生み出された新たな表現


今回はポスト印象派。それまでの絵画表現の脱却に挑んだふたりの画家、ゴッホとゴーギャンをご紹介します。

ゴッホは今でこそ誰もが知っている画家の一人だと思われますが、生前その作品に買い手がつくことはほとんどありませんでした。経済的にも精神的にもゴッホを支えていた人物、それは弟のテオドルス※。テオドルスはよき理解者であり、またゴッホの才能を認めていた数少ない一人だったのです。ゴッホは炎の画家とも呼ばれるように人並み外れた情熱をその創作に傾け、画家として10年にも及ばない活動期間の中で2000点以上もの作品を残しました。親日家だったゴッホは浮世絵の版画を買い集め、模写を繰り返し、浮世絵特有の色彩や線の単純化を学んだと言われています。1888年、フランスのアルルにアトリエ兼住居黄色い家※を構えたゴッホは、そこに画家仲間を集め芸術家の共同体をつくることを夢見ました。この頃のゴッホの作風は明るく幸福感に満ち溢れ、のちに傑作と呼ばれる多くの作品を生み出します。

黄色い家をつくって半年後、やって来たのはゴーギャンでした。ついに念願の共同生活が叶ったゴッホは、買い出しは自分、料理はゴーギャンというようにはじめのうちは楽しい日々を送ります。しかし冷静で計算高くロマンチストなゴーギャンと、炎のような情熱で魂の感じるままに現実の世界を描くゴッホの性格は情熱家という以外は正反対。日中の情熱的な制作活動のあと毎夜くり広げられるふたりの芸術論争は激しさを増していき、その関係はみるみるうちに険悪となっていきます。そしてあの有名な耳切り事件※が発生したことで共同生活はたった2ヶ月で破綻することになりました。

ゴーギャンはその後、失われた楽園を求めタヒチに渡り、創作の日々に没頭します。そして、あのタヒチの連作が完成。現実なのか夢の世界なのかどちらともいえないゴーギャンの世界観はそこで完結を迎えることになります。ゴッホとゴーギャンの関係は最後まで修復することはありませんでしたが、晩年ゴーギャンは『肘掛け椅子のひまわり』という作品を描いています。そう、ひまわりはゴッホの代名詞です。ひまわりを描いたゴーギャンの思い。それはゴッホへの敬愛の念でもあったのではないでしょうか。

ゴッホもゴーギャンも共に貧困や孤独、精神的な病などに悩まされ、困難な状況で創作活動をした画家ですが、本人たちにその自覚はなくとも、それを見守ってくれる人はいました。恵まれた環境ではなかったとしても、すぐには結果が出なかったとしても、情熱や努力は必ずいつか報われるということをふたりの作品から感じていただけたら幸いです。そして、少しでも勇気づけられることがあれば。彼らの作品はそれだけの情熱と力を持っているのですから。



©Bridgeman/amanaimages



Vincent van Goghフィンセント ファン  ゴッホ 

1853年3月30日、オランダ南部ズンデルトで牧師を営む父のもとに四男として生まれる。小さい頃から癇癪持ちで画商や語学教師、牧師や伝道師として活動するがいずれも長続きせず、27歳のときに画家になることを決意。印象派や浮世絵に影響を受け、独創的かつ感情の率直な表現、そして大胆な色使いで数多くの作品を残すも、常に孤独と精神的な苦悩がつきまとった。1891年7月27日、拳銃で自殺を図りその2日後に死亡(37歳)。


©Photo Scala, Florence/amanaimages



Euègne Henri Paul Gauguinウジェーヌ アンリ ポール ゴーギャン 

1848年6月7日、共和主義者だった両親のもとパリで生まれる。1歳のとき一家でペルーに移住後7歳で帰国。寄宿学校に通ったのち商船の見習い船員となり世界中を巡る。パリの証券取引所で職を得たのを皮切りに実業家として成功。その頃から絵をはじめる。株の大暴落を受け画業に専念するも貯蓄はすぐに底をつき家庭は崩壊。パナマやタヒチなど南国に楽園を求めた。50歳のときに自殺未遂。1903年5月8日心臓発作により死亡(55歳)。

公開日:2020年1月1日

更新日:2020年1月1日